旧制中学から新制高校(三中〜三豊高校・観一高)へ
その移行期(昭和十八年〜二十七年)の年表試案


 このページは、平成22年度『燧』での特別座談会「『旧制三豊中学から新制観音寺一高への移行期』を語る〜生き証人・四学年有志の回顧と校史への提言〜」の記事に連動するものです。
 その記事の作成に当たっては、誌面に登場しない多くの方々から資料の提供、アドバイスなどをいただきました。そのようにして新たに判明したことを踏まえて、鈴木岩男氏(観一3回・幹事)が、母校・観一高の正史年表に加筆/修正した「年表試案」を作成しました。
 この「年表試案」は、かなりボリュームがあり、すべてを『燧』に掲載するのはスペース的に無理なので、そのかわりに同窓会東京支部のホームページに掲載することにしました。 これを「メディアミックス」と言うのは大げさかもしれませんが、これからも、この種の取り組みは積極的に行いたいと考えています。

 以下の「年表試案」は鈴木岩男氏が起草したものです。平成22年度『燧』を併せてお読みいただくと、下記の年表の意味がより理解しやすくなります。 (観一20回 牧潤二)

旧制中学から新制高校(三中〜三豊高校・観一高)へ

その移行期(昭和十八年〜二十七年)の年表試案

 

昭和十八年(一九四三)

一 月  三日  一週間武道寒稽古をした。

四 月  四日  受験者三二一名のうち二一六名に入学を許可した。

七 月二十五日  有明浜で全校水練を実施した(五日間)

十 月二十八日  創立四十周年記念式及び新校舎落成式を行った。

         学徒戦時動員体制確立要綱が発令され、次年度から中学校の

修業年限が四年に短縮されることになった。

 

昭和十九年(一九四四)

八 月二十九日  三井玉野造船所へ五年生(41回生)が通年勤労動員された。

九 月 十七日  大阪市港区八幡屋国民学校集団疎開児童のため、当分の間

         四教室を貸与した。

九 月二十二日  海軍施設紀伊工事(柞田飛行場建設)に、三年生4344回生)

         四年生42回生)が通年動員された(四月十日以来度々出動)。

 

昭和二十年(一九四五)

二 月  八日  四年生(42回生)一二四名が愛知県知多郡中島飛行機株式会社

岡田工場に動員された(七月二十五日まで)

二 月二十六日  二年生(45回生)二〇六名が呉海軍工廠に勤労動員された(五月

二十二日まで。帰還後直ちに海軍桑山村作業場に動員された

三 月二十三日  海軍奥山部隊約三百五十名が校内に駐屯することになった。

三 月三十一日

   4142回生が卒業式を同時開催した。先の戦時動員令で

修業年限が四年に短縮された結果であり、五年生41回生)

と四年生42回生)異例の同時卒業となった。

式も動員先で行なわれた。しかも、卒業後も軍関係に進む者

以外は中学在籍扱いとされ、赴任先で動員が継続された。

 月二十七日  卒業後も在籍扱いだった卒業生(4142回生)の動員が月二十七日解除

され、全員帰校完了を以ってようやく除籍した。

八 月 十五日  終戦。

八 月 十七日  井村校長から無条件降伏についての訓示があった。

九 月 十七日  平常授業に復したが、連合軍指令により地理、歴史、修身、

         教練、武道の授業は禁止された。

十一月 十四日  麦蒔作業に全校帰農した(十八日まで。農繁休暇のはじまり)

十一月二十八日  進駐軍兵士三名が武器の整理状況を視察に来た。

十二月二十四日  戦時中に中途退学し予科練(海軍飛行予科練習生)など、

軍関係に進んでいた生徒たちの救済措置として、終戦後に

復員して来た生徒二十一名に対し卒業証書の授与式を行った。

 

昭和二十一年(一九四六)

三 月      第43期生の卒業式は、同期生でありながらこの年と翌年に

分れて行われた。その理由は、終戦と同時に前年の戦時特例

四年制が五年制にもどされたが、特例として四年修了でも

希望すれば卒業が許されたため。その結果、約三分の一の

者がこの年に43回生として卒業した。残りの者は5年修了

の正規コースを選び、翌年3月に44回生として卒業する

ことになった。

四 月  一日  三豊中学として最後の入学式(観一・3回生)を挙行。

以後、同学年は高校二年まで下級生不在の学年となる。

四 月二十八日  第四十三回創立記念式が行われ、京大教授滝川幸辰氏の

         「敗戦の原因と国家再建の道」の講演があった。

五 月      井村貫一郎校長離任。第十代臼杵貢校長が着任した。

七 月 十一日  進駐軍視察員が校内調査を行った。

八 月      奉安殿を徹去した(御真影は宮内省に返還した)。

九 月 十八日  進学補導室開所式を行った。

十 月 十六日  校内秋季大運動会が復活した。

十二月      全校学芸大会を挙行。

 

昭和二十二年(一九四七)

二 月 十八日  全校マラソン競走が復活した。

三 月         44回卒業式(四年で卒業した第43回生と同期生のうち五年

修了者の卒業式)を行った。43回生と44回生は入学年次では、

あくまで第43期生である(そのしわ寄せを受けた45回生=

三中最後の卒業生の年次も、正しくは第44期生である)。

四 月  一日    新教育制度(六・三・三・四制)施行により、新制中学校が

各市町村に誕生。以後、新入生の入学はなくなった。

それに呼応して三豊中学校に三豊中学併設中学校(新制)が

設立された。このため、三豊中学1・2年終了生は、新制

中学生として三豊中学校併設中学校2・3年生に編入さる

ことになった。

四 月 十八日  全校遠足を実施した(二・三年生―稲積山、四年生―本山

方面、五年生―花稲方面)。

四 月二十九日  天長節祝賀式を挙行。

五 月  三日  日本国憲法施行記念式を行った。

十 月      三・四・五年生に保健所で初めてレントゲン撮影を行う。

十一月      戦後初めて排球部、陸上競技部、籠球部等が県大会に出場。

 

昭和二十三年(一九四八)

一 月  十日  第一限後、喜楽館で映画鑑賞を行う(昭和二十八年頃まで

学校で引率)

一 月三十一日  大学志願者進学適性検査がはじめて行われた。

二 月  十日  同窓会総会を行った。 

三 月二十四日  第45回卒業式を行った。45回生(第44期生)は三豊中学の

最後の卒業生となった。そのうち約半数は四月発足する新制

三豊高校3年に編入。

三豊中学併設中学校3年生(観一・2回生)の卒業式を行った。

そのまま卒業する一部の者(転校が大半)を除き三豊高校に

入学。

四 月  一日     新教育制度(六・三・三・四制)の施行により新制中学

より一年遅れで新制高校制度が発足した。これにより

三豊中学校は三豊高等学校へと改編され、全日制普通科

コースを置いた。

同時に三豊中学校併設中学校は三豊高校併設中学校と

なった。

     それに伴い新制三豊高校の入学式・編入式を行った。

     ・三豊中学校併設中学校3年卒業生(観一・2回)→

そのまま卒業した一部の者(転校が大半)を除き

三豊高校一年生として入学。

     ・三豊中学5年卒業生(三中45回)→そのまま卒業

した者を除き、約半数の者が三豊高校3年生に編入。

          ・三豊中学4年修了生(観一・1回)→三豊高校2年生

に編入。

     ・三豊中学併設中学2年終了生(観一・3回)→三豊

高校併設中学3年生に編入.

                  父兄会を解散し、PTAが発足した。

六 月 十五日  定時制課程を設置し、本校を中心校とし、仁尾、豊浜、

         大野原に分校を置き、普通科および家庭科(前記二年)の

         二コースを設置、二八五名に入学を許可した。

九 月 十八日  四国軍政府が生徒自治会指導に関する講演を行った。

十 月      三豊高校文化祭を挙行した。初めて「デカンショ踊り」登場。

                  以降、観音寺一高文化祭の伝統行事となる。


昭和二十四年(一九四九)                     

三 月二十六日   三豊高校第一回卒業式(三中45回生)を行った。同校がわずか

一年で観音寺第一高等学校に統合のため、同学年は同校の最初で

最後の卒業生となった。

三豊中学校第46回卒業式(観一・1回生)を行った。

・この学年だけは三中から三豊高校に編入前に卒業証書を受け

取る卒業年の節目がなかった。このため三豊高校二年修了年が

三中5年卒業の節目の年に当たることから、三豊高校在学の

まま旧制三豊中学の卒業式を挙行した。戦後学制移行期なら

ではの異例のエピソードとなった。

・卒業後の進路についても、各自の希望で旧制三中卒業生として

社会へ旅立つ者が約二五%、その他の者は観一高在学生として

そのまま三年に進級した。

同時に、三豊高校併設中学3年の卒業式(観一・3回生)を

行なった。そのまま卒業する一部の者(転校が大半)を除き

観一高に入学。

四 月  一日

   ⇔      新制高等学校の再編成諸準備のために臨時休校

四 月 十九日 

四 月 二十日   新制高等学校再統合により三豊高等学校・三豊女子高等学校が

統合して、観音寺第一高等学校として、普通科課程、全日制

および定時制を現在地に開設した。    

初代校長には三豊高等学校から転任という形で、臼杵校長が

就任した。

四 月二十四日    新生・観音寺第一高等学校の創立を祝い開校式を行った。

           入学・編入式を行った。

           ・三豊高校併設中学校3年卒業生と三豊女子高校併設中学校

3年卒業生で普通科希望者(観一・3回)が入学した。

           ・三豊高校1・2年修了者と三豊女子高校1・2年修了者で

普通科志望者(観一1・2回)が2・3年生に編入された。

四 月二十七日   始業式を行った。

七 月  五日   ダビンス氏、菅視学官が来校。統合後の学校状況の視察聴取。

七 月 十一日   この年の四月の新制高校統合時に、観音寺第二高校の家庭科に

編入されていた旧三豊女子高校生徒二二八名が転入学を許可

された。生徒数は一三五○余名、三一学級となる。

七 月 十五日   文芸部雑誌『燧洋』創刊号が発行された。

七 月二十一日

   ⇔      夏季休暇

八 月二十四日

十 月  一日   旧三豊高等女学校関係学籍簿類一切を受領保管した。

十 月二十一日   第一回文化祭(三日間)を開催した。

十 月二十五日   第四回国体(東京)女子卓球で宮武田鶴子が優勝した。

 

昭和二十五年(一九五〇)

一 月 十八日   音楽会を開催した。

三 月二十三日   第一回卒業証書授与式(観一・1回)を挙行した。

三 月三十一日   臼杵貢校長離任。

          二代炭谷恵副・校長が着任した。

四 月  一日   新制中学より初めて新入生(観一・4回)を迎えて

入学式を行った。

五 月二十一日   三豊同窓会発会、会長請川卓氏が就任した。

八 月  六日   男子バレー部、西日本大会において優勝した。

八 月 十五日   三年生山本正雄、全日本高校水泳大会で百m、

二百mバタフライに優勝した。

九 月       女生徒の冬服を決定した。

十 月       「学園の歌」文化祭に募集、二年藤田邦衛が入選した。

十 月 三十日   三年生高橋三郎、国体男子槍投げで優勝した(五十三m五四)

 

昭和二十六年(一九五一)

四 月  六日   図書館コンクールにおいて本校図書館が優秀と認められ、

          米国よりコンプトン百科典を贈呈された。

八 月 十一日   不良化防止懇談会を開いた。

七 月       水泳部、西日本大会において二百mリレーに優勝した。

七 月  四日   校舎増築委員会を開いた。

 

昭和二十七年(一九五二)

三 月  五日   家庭科特別校舎が竣工した(二階建八教室)

三 月 十二日   第三回卒業証書授与式(観一・3回)を挙行した、これにて

          旧制中学出の最後の卒業生を送ることとなった。

四 月  一日   三年生男女北九州方面に修学旅行を実施した(六日間)

四 月       襟に組章をつけるようになった。

四 月       一・二年生に男女組が設けられ、男女共学が本格化した。

五 月 十九日   西讃高校弁論大会が本校講堂にて開催された。

五 月       校内放送設備が完成した。

十 月       観音寺一高校旗がつくられた(綾井教諭図案)。

十 月       体操部、第七回国体において第二位となった。

十 月二十五日   県下高校学力コンクール(高松一高にて)に参加した。

十一月       体育館兼講堂の建設を県に申請した。

          女子団体徒手、香川県体操競技選手権大会で初優勝した。

(以 上)

《備 考》

   @年表の記述のうち、普通字体の記述は、創立百周年記念誌『樟柳』の

    校史の正史年表による。

   Aゴチック字体(=太字)の記述は、平成22年版『燧』(三十五号)の座談会

     ―「旧制三豊中学から新制観音寺一高への移行期」を語る―

    の中で議論され、さらにその相前後に調査した諸事項をもとに

    校史の年表の一つの試案として、@の正史年表に追加付記したもの

です。母校保管の関係資料等との照合は一切していません。主と

して同窓会の諸兄姉間(右の座談会の出席者5名とその議論を纏めて

頂いた牧編集長ならびにその6名の同窓人脈と各学年の記念文集など)

の聞き書きによるものですので、間違いや思い違いも多々あるかと思い

ます。それだけに、むしろできるだけ多くの方々のご指摘ご批判を

いただいて、少しでも正確を期したい。そんな思いですのでよろしく

ご意見をお寄せ下さい。目的は、激動の時代の移行期の年表としては

いささか空白の目立つ校史の年表を、その時代に母校に在籍されて

いた皆様がお元気なうちに(小生も同じ身なのでこう申し上げても

失礼でない?)、少しでも埋めて頂きたい―この試案は、そのための

たたき台だとお考え頂き、何卒よろしくお願いします。

   Bゴチック字体に傍線をつけている記述は、三中45回生の卒業五十周年

記念文集『長瀾寄する五十年』(平成十年)の中から追補に値する史実

の記述として借用させて頂きました。

   C年表の年限区分は、三中45回生の入学年(昭和十八年)から

観一・3回の卒業年(同二十七年)まで、としました。

Dこの年表では、用語の定義として「入学年次」と「卒業年次」の表記を

次のように区別して使用しています。

     「入学年次の表記=第○○期生

「卒業年次の表記=第○○回生

    今回の年表調査でその区別が必要な歴史的事実が判明したからです。

その理由については、座談会の「第一部 現行の校史年表の問題点と

提案」のなかの「●四・五年生同時卒業がもたらした『次の卒業年次

へのしわ寄せ」(同『燧』45〜6頁)をご参照ください。そこで明ら

かになったように、入学年次では43期生であった同級生が卒業年次

では四年生で卒業する43回生と五年生で卒業する44回生とに分かれ

ることになった、つまり「第43期生=第43回生+第44回生」という

異例の事態が出来(しゅったい)することになったらですそのしわ寄せは、その

一級下にまで及び、三中最後の卒業生である45回生は入学年次とし

ては44期生であるのに、卒業年次では一年しわ寄せされ第45回生

なったのです。これが、入学年次と卒業年次の区分表記が必要になった

所以です。この年次表記の定義を再確認いただきいま一度年表を読んで

みてください。

   Eなおこの年表試案は、ご覧のように観一高時代以前の記述については、

三中と三豊高校時代の校史に限定しています。それだけに同期間の

三女から三豊女子高校までの年表に関しては、その間の女子卒業生の

皆様にご協力をお願いしなければなりません。この年表試案とともに

前述の『燧』誌上の座談会記事にもお目通し願って、是非とも当時の

情報の提供とご意見をお寄せください。その上で『樟柳』に記載され

ている正史年表(下欄・三女の年表)への加筆/修正についてご協力

賜りますようお願い申し上げます。

   Fそれが出来上がり次第この年表試案と並べてこのホームページに発表。

同様に当時を知る皆様からの声を承ります。それ等を踏まえて両案統

合の最終試案を完成の上、同窓会東京支部→本部を通じて学校当局に

提出。然るべく正史に反映して貰う手続きをとる予定です。

(以 上)

(文責=鈴木岩男・観一3回)

作成・平成221028日 

                   改定・平成221031

                   改定・平成22年11月2日